(福渡付近)


誰れと別れか 福渡あたり   啼いて夜半ゆく 川千鳥

 

泉漾太郎氏が中学生の時、野口雨情が選者をしていた時のコンクールに応募したのがきっかけで、漾太郎氏は雨情の弟子となった。そのため雨情は度々塩原を訪れている。

 冒頭の民謡詩には次のような逸話が残っている。夜明け間近、漾太郎氏は雨情に起こされ「今鳴いているのは何の鳥でやんしょ。」と聞かれ、とっさに「川千鳥」と答えてしまった。後日、専門家に確認したところ「アカショウビン」ということがわかり、早速お詫びの手紙を書いたところ、「川千鳥は渡り鳥かも知れませんから塩原へ湯治に行くこともありましょう。」というほほえましい返事が返って来たということである。

 雨情は、大正中期の民謡・童謡興隆の機運に乗り、北原白秋や西条八十らと共に多くの作品を発表した。「船頭小唄」「十五夜お月さん」「七つの子」「青い目の人形」など次々と名作を発表した。

 土から生まれた文学が真に国民的な文学であり、童謡・民謡の本質はそこにあると主張する。そこから生まれた素朴明快な詩風は民衆の中に浸透し、長く今日まで歌い継がれている。