塩原 高尾


寒風に もろくもくつる 紅葉かな

(妙雲寺境内)



この句は高尾の墓所、玉垣の親柱にある。 「秀麗な山河は美人を生む」のたとえのとおり、塩原から江戸に出て、 一世の美妓とうたわれた塩原高尾(万治高尾)の辞世の句である。 高尾の伝記については不明な点が多いが、寛永十八年(一六四一) 塩原の元湯に生まれ(幼名は「あき」)、五歳のとき塩釜に移り、 八歳のとき江戸吉原の妓楼、三浦屋の養女になったという。当時の最高教育 (音楽・茶・花・書等)を受けたが、明歴三年(一六三七) 一六歳の時明歴の大火(振袖火事)にあった。全焼した三浦屋を再興する ため自ら太夫となり二代目高尾を襲名、三浦屋高尾十一代中最高の名妓徒された。

墓碑の傍らに、高尾を恋人のように愛し、研究した泉漾太郎氏の


「いろは紅葉は 塩原高尾 笑顔かよわす 紋所」


という民謡碑がある。「いろは紅葉は高尾の紋所。 塩原の紅葉は名妓高尾のように美しい 素晴らしい紅葉を見ていると高尾の美しい笑顔が 連想されることであるよ。」という高尾への深い思いやりの感じられるうたである。

しかし、高尾はモミジが華やかなまま惜しまれつつ 散っていくように、十九歳の若さで胸を患い世を去ってしまったのである。

 塩釜の明賀屋駐車場横に、江戸の儒者、 山本北山の手になる「高尾塚」が建っている。この付近に高尾の住まいがあったといわれている。 高尾の墓は浅草山谷の春慶院にあり「転誉妙身信女」の戒名で葬られている。 墓碑銘にはやはり「寒風に もろくもくつる 紅葉かな」の句が刻まれている。