塩原温泉郷 |
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栃木県北西部に位置し、湯量豊富な良質の温泉と、緑豊かな大自然とにかこまれた景勝の地、塩原温泉郷は古来より広く世の人々に親しまれてまいりました。塩原の温泉地としての歴史は古く、伝うるところによれば大同元年(八〇六年)に如葛仙という人物によって湯本(現在の元湯温泉)に温泉が発見されたのがその始まりとされています.
塩原は山深い辺境の里ではありましたが、その良質の温泉のために時代時代の人々にとって大変魅力のある土地でした。特に支配階級層であった武士(領主)には重要視されてまいりました。温泉地には入湯者にとって”湯治’という大きな医療目的がありましたが、またそれを支配する側からすると、湯治客や湯宿から租税を取り立てることの出来る大切な財源であったためです。湯治客から微収する‘湯銭”は現在の入湯税にあたり、湯宿に賦課した“屋敷料”は現在の固定資産税にあたります。古くは応永九年(一四〇二年)に下野の守護宇都宮家十二代宇都宮満綱の命によって湯本村の湯銭を宇都宮の興禅寺(現在の宇都宮今泉三丁目)に寄進させた記録を見ることが出来ます。また、永正九年(一五一二年)にも十六代宇都宮正綱の四男孝綱の命によって同じく興禅寺に風呂造営のため湯本村の租税を寄進させています。このように塩原は支配層にとって貨幣収入を手に入れるための重要な財源であったことがわかります。それと同時に、租税の多さは人々の湯治の多さをも物語っています。 しかし、一般的には温泉場としての主な役割は人々の“養生”の場としての“湯治”が上げられるでしょう。現在のような医療技術の発達していなかった時代において、湯治は医者・薬・食事・呪術といった養生の手段の中でも特に重要な病気治療法の在り方でした。「医者の融通」「薬の服用」「滋養の付く食事」は上流階級のものでしたが、「温泉につかる」行為は皆等しく同じものです。湯本村には室町時代中期より「温泉大権現」「湯本山円覚院円谷寺」「塩湯山医王院湯泉寺」といった温泉信仰の神仏が祭られていることから、この頃よりすでに湯治が盛んに行われていたと考えられます。湯本村以外の塩原各地区においても次第に温泉神社(地元では湯前様)が創建されていったことからも、湯治の広がりが伺えます。 江戸時代になって、改易になった宇都宮氏に代わって塩原は宇都宮藩の支配下にありました。当時藩内には温泉地がこの塩原にしかなかったため、代々の簿主やその家族は度々塩原へ湯治にやってきたという記録を見ることが出来ます。その当時の湯本村の様子を知るものに、江戸時代初期の湯本村古地図があります。それによると、赤川沿いに六ヶ所の源泉があり、それを囲むようにして左右に家々が立ち並び、村の出入りりには木戸を設け、前記の社寺を祭り、湯屋八戸を含む民家・小邸・貸家等合計八十五戸の規模の集落を誇っておりました。その繁栄は「湯本千軒」と称されたほどです。 そんな湯治客で賑わった湯本村にも大きな転機がおとずれます。すなわち万治二年(一六五九年)二月晦日、突然の大地震による山津波によって集落は埋没してしまいました。宇都宮藩主は複数の藩士を派遣して湯本村の一時復旧を試みますが村立て直しは困難とし、絶家や転地不詳したものを除く六十戸余を上塩原村・下塩原村・大田原藩領・芳賀郡真岡(一戸)へ移住させ、湯屋八戸を含む十六戸が新天地を求めて荒湯(現在の新湯温泉)を興しました。この時より湯治は「福渡」「古町」「塩ノ湯」の各地区を中心とした下塩原村に移っていきました。 明治時代以降の塩原温泉郷は、塩原街道の開発整備、東北本線西那須野停車場の開業、文人墨客の作品への登場、皇太子(後の大正天皇)の塩原御用邸建役等々によって広く世に知れ渡り観光客の大幅な増加をみました。
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