(ガマ石園地)





「 俥を駆りて白羽坂を踰えてより、回顧橋に三十尺の飛瀑をふみて、山中の景
は始て奇なり。之より行きて道有れば水有り、水有れば必ず橋有り、全渓にして
三十橋。山有れば巌有り、巌有れば必ず瀑有り、全嶺にして七十瀑。地有れば泉
有り、泉有れば必ず熱有り、全村にして四十五湯、猶数ふれば十二勝、十六名所
七不思議、誰か一々探り得べき。」                    

 

尾崎紅葉の「金色夜叉」は明治三十年から六年間、読売新聞に連載されたが紅葉死去のため未完に終わった。

紅葉は明治三十二年六月九日から三泊四日の塩原旅行をし、名所旧跡を始め三度の食事の内容まで事細かに書き留めている。後に柳田泉により「塩原紀行」と題されたこの短篇は、金色夜叉執筆に大いに役立ったものと思われる。

 熱海の海岸で、金に目がくらんだ婚約者鴫沢宮から、裏切られたことを知らされた間貫一が高利貸しとなって金権社会に復習しようとする。これが金色夜叉の粗筋である。

 熱海の海岸がこの物語の発端であるならば、塩原の場面は終結に向かう大事な場面である。塩原の宿(清琴楼)に着いた貫一は、言葉をつくしてその風景を賞賛している。美しい塩原で心の平安を取り戻した貫一は、隣室で心中しようとする男女を助ける。偶然にも二人から宮の不遇を聞かされた貫一は、帰京後、宮からの手紙に目を通すようになる。その宮からの切々たる長文のところで紅葉の筆は惜しくも中絶している。(胃がんのため三十六歳で逝去)。

 碑文は
「続々金色夜叉」の始めの部分であるが、特に名文として名高い。大岡昇平は小説「逆杉」の中で「音読すれば耳はもとより、喉にも快感を感じさせる不思議な力を持っている」と述べている。 

 金色夜叉によって塩原が有名になったということで、紅葉は塩原三恩人の一人
とされている。