田山 花袋


(大綱付近)



「塩原の谷は始めて訪ねて行ったものを、驚かさずには置かなかった 単に渓谷 としては日光の大谷の谷もこれに及ばず 箱根の早川の谷もまたこれに及ばず木曽の峡谷もまたこれに及ばず 耶馬の渓もまたこれに及ばず 球磨 富士  天龍 それは舟かぢを通ずると 通ぜざるとの別はあるにしても 矢張り この 塩原の箒川の谷には及ぶべしとも思はれなかった」 

 

田山花袋文学碑は、塩原街道開通百年を記念して大綱付近の国道四百号沿いに建てられた。旅を好んだ花袋の来塩は、大正初期で塩の湯に四、五日滞在している。その時の紀行文「日光と塩原」の一節が冒頭のものである。塩原の自然美を賞賛しているが原文を見ると「私は東京に近く、好い温泉を聞かれた時、一番先に、先ず箱根と答えた。次に塩原と答えた。そしてその次に伊香保と答えた。」 とあるように塩原への思い入れはかなり強かったようである。         

 また紀行文「山水小記」の中でも

「水の美しさは塩原の谷も多くこれ(大谷川)に譲らない。
  入勝橋から福渡戸に行くあたりは、殊にすぐれている。 
   しかし箒川の谷は何方かと言えば女性的である。」

 とも書いている。


 田山花袋は明治四年、群馬県(当時は栃木県)館林に生まれ、本名を録弥といった。「事実を事実のまま自然に書く」ことを主張した花袋が「破戒」「独歩集」などの刺激で書いたという「蒲団」は、女弟子への密かな想いを大胆に告白した作品で、自然主義の代表作になった。他に「田舎教師」「重右衛門の最後」、多数の紀行文等を書き昭和五年、喉頭がんのため逝去。六十歳であった。