(塩の湯付近)
或る年の秋、十月の末であった。自分は塩原箒川の支流鹿股川の 畔の石に腰かけて居た。前夜凩が烈しく吹いて、紅葉は大抵散ってしまって、川床は殆ど深紅になって居た。 右も左も見上ぐる程の峰が細長く青空を限って空にも川が流れて居る思はれた。秋末の事で、水は痩せ、涸れに涸れて、所謂全石の川床の真中を流れて行く。 <川床は峰と峰との谷間をくねって、先下りになって居るから、遠くまで流れの末が見える。 ちゃうど川の末に一高峰が立ち塞がって、遠くから見ると川は其峰に吸い込まれるかの様に思はれ、又山が、『此処に居なさい、里に出て何になる、居なさい、居なさい』 <と水の流れを抱き止める様にも思はれる・・・・ |
「自然と人生」は明治三十三年八月、民友社から発行されたが、その中の一章は戦前の中学の国語の教科書のほとんどに載せられていたほどの名文であった。 その中の「空中流水」は、蘆花が明治三十三年十月末、塩原を訪れ、鹿股川に遊んだ時の記録である。この鹿股川の自然スケッチは大変簡明な印象描写で、極めて短い文章で、ある瞬間をとらえた傑作である。鹿股川に降り立てば、今も明治の世に蘆花が見たままの姿を留め詩情豊かな清らかな流れを見せてくれる。 徳富蘆花は明治元年、熊本県に生まれ、本名を健次郎といった。代表作としては、武男と浪子(三島通庸の息子弥太郎と大山元帥の娘信子をモデルにしたといわれる)で有名な「不如帰」(明治三十一年)がある。これは「金色夜叉」と並んで明治の恋愛小説の双璧といわれた。昭和二年九月、伊香保で療養中、六十才で亡くなっている。 |