塩原温泉三恩人


毎年秋のかすかな気配さえ感じさせる9月18・19日の二日間、塩原の温泉街は飾り立てた六台の“山車”によって華やかさにつつまれます。「塩原温泉祭り」です。このお祭りは塩原温泉発展に寄与された町の三人の恩人「三島通庸」「奥蘭田」「尾崎紅葉」へ感謝を捧げ、また私達への自然の最大の恩恵である温泉へ感謝を捧げるお祭りです。

 現在豊富な温泉と雄大な自然とにはぐくまれた天下の景勝の地、塩原温泉
も、もとから発展していたわけではありませんでした。塩原は明治時代中期以降、急速に東京方面からの観光客が増加していきました。その観光地としての繁栄の陰には前記の三氏の塩原に対する功績があったからです。ではその三氏の足跡についてご紹介をしていきましょう。

 まず最初は「三島通庸」(みしま・みちつね)です。通庸は天保六年(1835年)薩摩国鹿児島藩士の家に生まれました。幕末の激動の時代にあって、「京都寺田屋事件」「禁門の変」「長州征伐」「鳥羽・伏見の戦い」などの歴史的事件に関わりながら西郷隆盛の配下として活躍しました。明治の時代になると大久保利通の取り立てによって官僚となり、山形県令・福島県令などを務め、明治16年(1883年)に栃木県令となりました。三島県令はそれ以前より那須野ヶ原の開拓に着手しており、現在の西那須野町の基を築きました。三島通庸は別名「土木県令」とも称されたほど、その生涯に多くの大胆な土木事業をおこしました。この三島県令の三大土木事業が、「栃木県庁の移転」「陸羽街道の整備」そして「塩原新道の開発」です。それ以前、塩原温泉へ向かう街道(現在の400号線)は道幅が一間(1.8m)程しかなく、大変危険な道でした。明治17年(1884年)三島県令はこの街道を開発整備することによって、福島県会津地方との交流や物資の流通をはかりました。このことによって塩原温泉へのアクセスが整い、東北本線西那須野停車場の開業ともあいまって、塩原への東京地方の観光客が大幅に増加しました。後に三島家は塩原に所有していた別荘を皇室に献上し、「塩原御用邸」が誕生しました。

 次は「奥 蘭田」(おく・らんでん)です。蘭田は天保7年(1836年)に和泉国日根郡(大阪府泉佐野市)に生まれました。蘭田はその生涯を商業に置き、幕末から明治にかけて多くの事業を興した東京実業界の重鎮でした。また、幼少の頃より漢学や絵画に親しみ風流を愛する多芸多能な人物でもありました。明治21年(1888年)蘭田は景勝の地、塩原温泉に別荘「静寄軒」を構え、塩原の自然・温泉・地理・産物などさまざまな分野を探り、明治23年(1890年)に「塩原紀勝」という書物にまとめ出版しました。すなわちこれが世に出回った最初の塩原温泉郷紹介の書物でした。原文は漢文体で、詩画を配し、塩原の景色を十八景に分けています。これによって塩原の美しい自然や良質の温泉は広く人々に知られ、観光客の増加につながりました。

 最後は明治の文豪、尾崎紅葉(おざき・こうよう)です・紅葉は慶應三年(1867年)に江戸の芝中門前町に生まれました。明治18年(1885年)山田美妙らと「硯友社」を結成し文壇の第一歩をしるして後、華々しい活動で明治文壇を代表した大家です。その人柄は信義にあつく親分肌で、文士の社会的地位の向上を常に心がけ、小説のみならず翻訳・紀行・随筆・俳句にたけた一代の文章家でした。紅葉といえば「金色夜叉」が有名ですが、この大作を執筆したのがここ塩原温泉です。「金色夜叉」は明治30年(1897年)1月より六年間にわたって「読売新聞」に断続的連載された小説です。塩原の風景を描いた箇所は明治33年12月に「続金色夜叉」に書き綴られた文ですが、名文中の名文とされています。これに先立つこと明治32年(1899年)六月、尾崎紅葉は新緑美しい塩原の街道に人力車を走らせていました。塩原滞在中、紅葉は執筆活動の合間に町を散策し、名所旧跡を訪ね、俳句を作り、塩原の良質の温泉と天下の景勝を楽しみました。この後、塩原温泉は「金色夜叉」によって世に知れ渡っていったわけです。

 これらのように、「三島通庸」「奥蘭田」「尾崎紅葉」の三人の人物は明治時代においてその活動において塩原温泉の名を世に知らしめてくれました。このことによって塩原温泉は天下の景勝の地として観光客が年々増加の一途をたどっていったわけです。まさにこの三氏は塩原温泉の恩人なのです。