三島通庸と  
塩原新道開発


 塩原は関東地方の北部に位置し、湯量豊富な温泉と緑豊かな大自然にかこまれた日本でも有数の温泉地です。 現在は国道400号線が東西に走り、北は会津地方、南は鬼怒川・川治へとぬけることができます。この“道”は生活道路として、また町の基幹産業である観光道路として、私達にとって大変重要なアクセスです。

 西那須野・塩原インターをおりると千本松牧場沿いに国道400号線が直線に走ります。関谷を経て山坂道に入るとそこは通称“塩原バレーライン”です。塩原温泉郷へと向かう途中の景観 “塩原渓谷”は、四季折々の自然の美しさで私達の目を楽しませてくれます。

 そのような塩原への“道”ですが、明治時代の初期まではその地形の厳しさから道らしい道はありませんでした。その昔、江戸時代には現在の那須野ヶ原は水の便が悪く、はぼ原野に近い状態でした。塩原への渓谷には幅一間(1.8m)程の細い山道がわずかに通っていただけということです。

 この那須野ヶ原を開拓し、塩原への道を開発してはぼ現在の姿にしてくれたのが時の県令(知事)三島通庸です。明治17年三島道庸は県令に赴仕ずるとただちに土木事業に力をいれます。当時栃木町(栃木市)にあった県庁を宇都宮町に移転させ、陸羽街道(四号線)を開通させ、塩那街道を開通させました。「栃木県庁落成式」及び「塩原新通開通式」には中央政府より三条美実太政大臣をはじめとする多数の高位高官が参列しました。
この新道開発以来、明治19年の東北本線西那須野停車場の開業ともあいまって次第に塩原にも東京方面よりのお客様が来るようになりました。その後、尾崎紅葉・夏目漱石・正岡子規・北原白秋・斎藤茂吉・与謝野晶子ら数多くの文人達が遊び、三島家所有の別荘献上による「塩原御用邸」の建設で一躍世間にその名が知れ渡りました。塩原近代化の基はいわばこの“新通関発”によるアクセスの整備によるものといえるでしょう。