風光明媚な温泉郷“塩原”は、明治時代以来アクセスの整備や交通の発達によって東京方面よりの観光客が急激に増加していきました。一般客のほかに、「塩原御用邸」などの影響から華族・政府の高官・軍人などの比校的上流階級の人達の来塩が多く、夏の避暑や秋の紅葉の時期には温泉はたいそう賑やかでした。その数多くの来訪者の中でも、特筆すべきは当代一流の文人墨客がこの塩原の自然と温泉を深く愛していたことでしょう。
そのなかのほんの一部分の作家を御紹介していきます。 塩原温泉の文学といえば、まず最初に「尾崎紅葉」の「金色夜叉」が上げられます。紅葉山人は明治32年の旧暦の端午の節句の頃、この塩原に執筆と静養を兼ねてやってきました。すでに明治30年1月より読売新聞紙上において「金色夜叉」は連載されていましたが、塩原ゆかりの文章は明治33年12月に書き綴った「続金色夜叉」の冒頭の部分ですが、名文中の名文とされています。紅葉山人は塩原行きの様子をことこまかに紀行文「塩原紀行」に書き綴っておりますが、当時の来塩での姿を鮮やかに思いおこさせてくれます。
明治41年10月、もみじの色づきはじめた塩原の渓谷を四人の学生が楽しそうに歩いています。東京帝国大学のサークル「鉄門クラブ」のメンバー「斎藤茂吉」です。茂吉は後に「アララギ」の総帥として日本歌壇に大きな足跡を残しました。この塩原への遠足のおり、茂吉は五十首の歌を詠み「アララギ」に掲載しています。また、その後「赤光」には四十四首に整理して掲載されています。
門前妙雲寺境内の「常楽の滝」の傍らに大きな石碑が建っています。大正年9月に塩原を訪れた際、平元徳宗和尚のすすめに応じて作られた文豪「夏目漱石」の詩です。この詩は漱石帰京の後に和尚宛てに送られた作ですが、次の代の河瀬義道和尚によって建碑されました。
その妙雲寺の山門の前には以前宮本ウメという人が住んでおりましたが、大正10年の夏から秋にかけての一ヶ月間、この宮本家に若き日の“谷崎潤一郎”が寄宿しておりました。昭和32年8月、すでに名をなした谷崎は30年ぷりに塩原を訪れました。すると、宮本ウメ女がいまだ健在でおられたため谷崎は大変喜び、ウメ女の長寿をことほぎ旧恩を謝して二首の歌を送られました。
昭和9年5月新緑の塩原山に遊び、夫婦で九十首の歌を残されたのが、日本の和歌革新運動の発端であった「明星」の創刊者、“与謝野鉄幹”“与謝野晶子”夫妻です。塩原で詠まれた歌は鉄幹発行の「冬拍」に掲載されています。
このほかにも塩原に遊び、その自然の美しさを歌や詩に詠み込んでいかれた文人は数知れません。「徳富盧花」「国木田独歩」「長塚節」「幸田露伴」「北原白秋」「高浜虚子」「野口雨情」「島崎藤村」「佐々木信網」「森田草平」「田山花袋」「竹久夢二」「高村光太郎」「室生犀里」そのた大勢の文人達がこの塩原を愛していかれました。私達もこの美しいふるさと“塩原”に誇りをもっていかなくてはなりません。
塩原にはこれらゆかりの文人墨客の作品を石に刻みこんだ文学碑がたくさんあります。この文学碑を訪ね歩くのも一興です。塩原町文化協会より文学碑の案内書「文学散歩」の小冊子がでていますので、これを手引きになさるとよろしいでしょう。お問い合わせは塩原町教育委員会社会教育課(0287−32−3812)まで。
では最後に室生犀星の「塩原道」の一節を御紹介して終わりましょう。 |